少年ネロの孤独な夢想

心に移り行く由なき事を、そこはかとなく綴ったりして行きたいです。

Remember of The Love and Terror Cult――Acid or assortment Trips 感想――

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最初に何を書こうか一頻り悩んだ挙句、結局何も思い浮かばなかったので、最近になって再度プレイしたフリーゲームの感想を此方にも記載しておこうと思います。

人間が育む物事というのは常に最初が肝心とよく言いますが、その点において僕の始まりとなるこの記事は正に落第と言って良いでしょう。何せ以前書いたゲームの感想を此方のブログに貼り付けただけ……これは正しく「手抜き記事」と言わざるを得ません。これぞ正しく、態々時間を割いて読んで下さる皆様に対しての冒涜と言っても過言ではありません。こんな拙い文章から生まれた感想なんて辺境の地に訪れてまで読みたい人がいるかと言えばそこまでの自信も皆目ありませんし。そもそもこんなブログを立ち上げた事自体、誰にも語っていないので、特に知名度もございません。

いいの?これでいいの?僕、ホントにこれでいいの?生きていていいの?とか思ったり思わなかったり。さあて、本当はどっちでしょう?等と世迷言も抜かしてみたり。正体見たり。枯れ尾花。

しかしそれで良いのです。裸一貫。ただ只管書く事にしか取り柄の無い僕の唯一出来る事。これまでも色々と書いてきましたが、本ブログでもメインになるだろう『物語』に対する想いが1番明瞭に表れているのはこの批評だと思います。ある意味初めましてを語るに相応しい感想とも呼べましょう。

と言う訳で、前置きが長くなりました。物語が齎す夢の一編……『Acid or assortment Trips』の風味をどうぞ御賞味下さいませ。

物語を作る創作者と言うのは、基本的に「忘れてはいけない事」を伝えたいが為に描いている面があると思う。
そしてそれが初めて世に出た作品の場合、読者はそれこそ1番伝えたいモノだと錯覚してしまう面もあると思う。
人それぞれが忘れてしまっているかもしれないモノを振り返る為に、人は物語を紡いでいく。
それは古代の動物壁画より始まり、物語調の体裁を整えながら連綿と紡ぎ続けてきた、言わば人類の歴史とも言える。
物語とはある意味「忘れてはいけない」を改めてなぞる、人間が新たに再認識する「歴史」と言えるのかもしれない。


さて、此処に1つのフリーゲームがある。
これは、SummertimeがSummertimeを奏でていなかった頃に生まれたアドベンチャーゲームAcid or assortment Trips
過去の事件をネットで調べていて、もしもあの事件の場所、時代に居合わせたとしたらということを想像して作りました」なんて動機を作者自ら語りつつ、作者自らがその歴史に口を閉ざしたゲーム。言わば彼の中では黒歴史と言っても差し支えのない物語だ。

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それから高校時代に作ったフリゲにコメントがついてることに気がつき、こっちも面白いんじゃないかと思いゲームを作り始めました。

――高校時代に作ったフリーゲームというのはどんなものでしょうか。

隷蔵庫:高校時代のはあまり……出来が良くないので教えたくないですが、一応フリーゲームサイトにあります。

【インタビュー】「使命感が無くなったらその時点で終了じゃないかとは思います」――『ベオグラードメトロの子供たち』クリエイター・隷蔵庫 | BadCats Weekly

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「出来が良くないので教えたくない」と、本作を高校時代に手掛けた隷蔵庫氏は語った。調べれば彼が本作を手掛けた事は一目瞭然なのに、今ではその名前すらも、インタビューの中では終始語られる事なく、独りだけ幕が閉じられている。
何故、彼はその歴史に口を閉ざしているのか。「出来が良くない」と言う発言は、隷蔵庫氏の中でどのような意味を込めて発した言葉なのか。
その真意を僕なりに確かめてみる為、今回プレイしてみる事にした。そう、言わばこれはそんなどうでも良い想いも一緒くたに込められた個人的述懐の記録である。
しかし、そもそも僕が本作に対して語る事はそこまで多くなく。これはただ、自分が忘れていない現状を漫然と書き遺すだけの文章と成り果てる事だろう。そんなあれやこれやも踏まえた上で、どうか少しばかり付き合って欲しい。





『Acid or assortment Trips』……訳すると「アシッド、もしくは詰め合わされた麻薬中毒症状(トリップ患者)」
Acid……LSDの事。隠語:ペーパー、紙、神、アシッド(乱用されている薬物 - 愛知県警察)
assortment……仕分け、分類、詰め合わせ
Trip……トリップする(事)、麻薬中毒症状

タイトルからしてわかるように、本作は麻薬とそれに付随する人々の錯綜蠢く物語である。
街の名前が「フィッツジェラルド」なんて如何にも洒落たアメリカンチックの名前である事。
描かれている舞台が明らかに1960年代~1970年代のアメリカにおけるヒッピー・ムーブメントをなぞっている事。
そして上記から、本作がチャールズ・マンソン率いるマンソン・ファミリーの起こした連続殺人事件にインスピレーションを刺激されて作られた事は既に明白。
リゼルの元ネタは教主のチャールズ・マンソンカニバリストのスタンレー・ディーン・ベイカー、4P運動の首謀者グラン・チニョン(彼の場合はその存在自体が都市伝説の領域に過ぎないが)の組み合わせと考えるのも想像に難くない。
ロバート・アンスン・ハインラインの『異星の客』が経典と化し、社会に影響を与えた頃の事。彼等のような人間も出てきた時代をなぞって、この物語が生まれた事は十二分に深く伝わった。
そして、そんな全てを理解した上で1つこの場で問うてみたい。

 

この物語を紡いだ事に果たして何の意味があったのだろう?


主人公の兄、イドは既にキチガイリゼルに惨殺されていた。
イドの恋人、デゾはリゼルに左目を潰され、大切な人の死が自分にある事を聞かされたまま、事件による疲弊が与えた精神的ショックの弊害により、病院で尚も眠り続けている。
そして、連続殺人犯のリゼルは警察と打ち解け合う世渡りの上手さで、早々に釈放されるかもしれない未来が随分あっさりと見えていた次第。

そう、描かれたのは最後まで、現実以上に救いようのない「凄惨な事件」そのものだけだ。
勿論、ただ手をこまねいてその結末を安易に受け容れた僕ではない。デゾをリゼルの家から連れ出し、フィッツジェラルドを徘徊し、もう1つのエンディングが何処かにないか?血眼になって探してみた。時には一緒に寝てみたりもした。10日を越えるまで彼女と寝てみたりもしたが、そんな希望の11日目は何処にもなかった。何もなかった。存在しなかった。
あったのはただ、後味の悪さだけを心魂に残した「凄惨な事件」そのものだけだったのだ。

その時、僕は自然と思い返していた。ダウンロードする前に作者が語っていた制作の動機についての有難い言葉を。
「過去の事件をネットで調べていて、もしもあの事件の場所、時代に居合わせたとしたらということを想像して作りました」
チャールズ・マンソン率いるマンソン・ファミリーの連続殺人事件、もしくはスタンレー・ディーン・ベイカーの食人、はたまたグラン・チニョンの秘密結社、もしくはそれ以外の元ネタ……に居合わせた結果を想像して作ったのが本作。
然り。そう、この作品はあくまで「想像した」だけで終わらせている。事件があった事をあったままにして、傍観の如く冷酷なまでに、無慈悲すぎた惨状を描き切っただけの話が、このフリーゲームに他ならない。


思うに当時の彼は、只々「歴史を自分なりの物語で再現させたかっただけ」なのかもしれない。主人公の謎のみに興味を抱く行動と最後に一言述べた言動こそが、その事実を見事に指し示している。
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「兄の恋人がどうなったかは知らない。回復したのか、それともまだ寝込んだきりなのか」
「人でないものになった恋人を視てなお、彼女は正気を保っていられるのだろうか?」
「どのみち、僕には関係のないことだが」

『Acid or assortment Trips』主人公
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イドの弟。それ以外には何も情報を持たないその主人公は――無口である事も理由の内に含むのだろうが――その行動から、兄やデゾやリゼルと言った個人個人に対する悲嘆、共感、憤怒と言った心の動きがまるで感じられない。まるでゲームをプレイしている僕等プレイヤーを投影させたかのような他人事さで以って。「事件は幕を閉じたので、後の事は全てどうでも宜しい事でしょう。はい、さようなら!」と言わんばかりの心情吐露だけが残されたまま。本作の幕は閉じられている。
そこまで他人事とは感じなかった読者の心には言いようのない暗礁を残して。「Thank you for playing!」と来たもんだ! ブラックジョークとしても随分面白いゲームだろう。

そしてだからこそ、彼は口を閉ざしているのだろうと僕は考えてしまう。勿論、処女作と言う事もあり、単純に粗が多いからこそ語りたくない事実もあると思う。「空き巣には気をつけろ」「鍵は必ずかけておけ」と言った物語序盤の忠告に意味がある出来事が起こるのかと思いきや、それは特段何もなく。その言葉を放った人物の正体も不明。リゼルやエインの過去と言った要素も描写だけされて、後は放ったらかし。プレイに支障はないにしても、バグも見事に多く散見された。それもまた、紛う事なき真実である。
ただ、それ以上に本作の根幹を作り上げていたのは過去にあった実際の事件を組み合わせて生まれた「歴史の再現」であり、そこに『物語』としての真価はあまり感じられない。「歴史を自分なりの物語で再現させたかっただけ」の対象として、主人公を操り人形に利用した結果がそこにはあった。
異分子と化した主人公がフィッツジェラルドと言うアメリカンチックな街に足を踏み入れて導いた真実は、振り返ってみるとデゾとの同道から導き出されし真実に過ぎず。あくまでその場に居合わせた場合の空気を描いた思考実験に過ぎず。彼がやった事は今後の世界に何も影響を齎さず。ただの傍観者として運命を見届けただけの、実に人間味皆無な実在感しか存在しない。
愛する兄の為に街へ赴く設定だが、その愛情は作中でも感じない。兄の恋人と共に証拠を探すが、彼女に対する同情や共感の想いも見受けられない。そして殺人鬼に対する憎悪や憤懣も特に見出せない。そして結局、事件の結末もデゾの姉のディアが助ける事で事なきを得ている始末である。

要するに、これは彼の中では「歴史」だけをなぞった出来の悪いゲームに過ぎないのだ

忘れてはいけない」を改めてなぞる、人間が新たに再認識する「歴史」こそが『物語』とするならば、本作は正にその「歴史」である。それ以上でも以下でもなく、主人公の視点を通した物語の先にあるのは、彼の感情と同じく紛う事なき冷徹の視線のみ。実際にあった出来事を想像で再度書き残した叙述は、実質誰からも語られぬままに、独り幕を閉じたまま。「忘れてはいけない」がこの物語にも入っているのに、製作者からは口に出すのも憚られる駄作と見えているのだ。
……なんとも皮肉な話だとは思わないか、おい?

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

さて雑感。
本作をクリアして、僕はクエンティン・タランティーノが創り上げた一連の歴史改変映画について少し思いを馳せる事となった。
彼は実際の史実を御伽話と言う形で改変する事により、クソみたいな現実の歴史に中指を突き立てるのが取り柄である。
そこにあるのは『物語』を通した残酷且つ悲惨な現実との激闘であり、それに打ち勝つ事こそが彼にとっての「忘れてはいけない」なのだと、今ではファンも含めて全員が良く分かっている。
そんな彼の作品『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』『Acid or assortment Trips』は、事件の再現を物語へと落とし込んだ同時代性を描きながらも、その焦点は全く以って正反対と言って良いだろう。主人公に明確な人格を与えるかどうか。史実の末路をどのように処理するかどうか。そんな対極の描き方により作品同士も対立的に異なるモノだったと、今でははっきりと断言も出来る。
しかしこれらの作品達は、対照をなぞりながらも通底している部分が確かにある。異なっていないものが確かにある。それは物語が導く確かな伝達。どちらも「忘れてはいけない」をなぞる為に生み出された代物である事を示す結実と言えよう。
そしてだからこそ、彼女の悲痛に身を砕かれた叫びは、今でも僕の胸に深く突き刺さる。

引用:『Acid or Assortment Trips』デゾの台詞

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「前に、あなたが海辺で瞑想をしていたとき……なんて素敵な人なんだろうと思ったの」
「この街には、海を見て感動する人なんて誰ひとりいないわ」
「興味があるのは、くだらないことばかり」
「でもね、あなたを真似て、波打ち際に座ってみたらとても安らいだ気分になった。子供の頃を思い出したみたいだった」
「あの海の向こう側には、空があるんだわ……小さい頃、いつもわくわくしてた。姉さんと海辺を走り回ったことを思い出したの」
「だから……わたくし、あなたに感謝していたのよ」
「でも、どうやら、あなたはそんなつもりじゃなかったみたいね」
「本当のあなたは、ただの惨めな殺人鬼だったわ」

『Acid or assortment Trips』デゾ
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例え公式の歴史からは消え去ろうとも、製作者の口から再度その名を聞く事が無かろうとも。
僕にとっての「忘れてはいけない」は今でも確かに、きちんと此処に、ちゃんとあるのだ。